Tacomi式世界④「小学生日記 ~罪の告白~」
屋根裏を整理していたら、ほこりを被った日記が出てきた。ぼくは小学校3年生くらいの頃、よく日記をつけていたのだ。
何を書いていたのか、正直覚えていない。ぼくはどんな子ども時代を送っていたのだろうか。新しく買った本を開くような喜びで、ページを開いてみた。
○月○日 はれ
きょうは、おかあさんから、おこづかいを500えんもらいました。じてんしゃにのって、ドラゴンボールのカードダスをやりにいきました。
カードダスは1かい100えんで5まいのカードがでてきます。なので、5かいやりました。でも、キラカードはでなかったです。カードダスがおいてあるコインランドリーのおみせのひとに、「すいません、このカードぜんぶいやだから、100えんとこうかんしてください」といったら、「んなことできるわけないでしょ!!」とおこられました。むかつく。おこづかいが0えんになったし、このうらみはいっしょうもちつづけます。
字が汚く、判読するのに苦労した。少しは漢字を使えよ! と言いたい。
というか、そもそも何というアホな日記だろうか! 誰もそんな取り引きに応じるわけがないし、お小遣いを使い果たしたのは自分のせいだろ! とツッコミたくなる。ああ、情けない。もうちょっとマシな日はないのか。次だ、次。
○月×日 くもり
きょうは、おかあさんから、おこづかいを500えんもらいました。ハイパーヨーヨーのガチャガチャがあるとがっこうできいたので、じてんしゃにのってやりにいきました。
ビスコ(注:店名)にいったら、ハイパーヨーヨーのガチャガチャじゃなくて、にせもののハイパーヨーヨーのガチャガチャしかありませんでした。みんなにだまされた。がっこうのともだちをいっしょううらみつづけます。でも、ぼくはとにかくヨーヨーがほしかったので、やりました。ヨーヨーがてにはいったので、うれしくて、かたてうんてんをしながらヨーヨーであそんでいました。
いえにかえったら、おかあさんがげんかんでまっていて、「そのヨーヨーどうしたの?」ときいてきました。ぼくは「だいがくせいのお兄ちゃんからもらった」といいました。おかあさんは、「そんなのウソ!」とすぐにいいました。ぼくは、「ほんとうだよ! ふりょうっぽいだいがくせいのひとからもらったんだよ。まだそこらへんをウロウロしているかもしれない!」といいましたが、おかあさんはぜんぜんきいてくれず、ぼくをまたビスコまでつれていきました。むかつく。
ビスコまでいって、おかあさんがおみせのひとにじじょうをはなして、「このヨーヨーと500えんをこうかんしてくれませんか?」といいました。おみせのひとは「できません」といいました。ぼくはわらったけど、おかあさんがおこってぼくのてをひっぱってビスコのそとにつれていき、500えんがどれだけだいじかをせつめいしてくれました。みんなこっちをみていてはずかしかったです。むかつく。
どうやら、ぼくは基本、「最終的には自分の罪を他人に押し付けて、一生恨み続けるというスタンス」を取っていたらしい。身勝手極まりない犯罪者だ。お世辞にも、いい子だったとは思えない。この2ページを読んだだけで、ぼくは寒気がしている。自分が嫌になる。三度目の正直で、もう次のページに希望を託すしかない。
○月△日 はれ
きょうはかていかのじゅぎょうで、おりょうりをしました。みんなでワッキーをつくりました。まっちゃをいれたワッキー、かたぬきしたワッキー、チョコチップをつめたワッキーなど、いろいろなワッキーができました。そして、ぜんぶオーブンでやきます。なかには、まっくろにこげちゃったワッキーもあったけど、サクサクしてておいしかったです。ぼくは10まいくらいワッキーをたべました。
愕然とした。希望どころか絶望だ。あれはクッキーではなかったのか。
ああ、覚えていないけど、とうとうぼくは知らず知らずのうちに殺人を犯した上に、なんと食ってしまったらしい。もう時効なんだろうけど、クラスを代表してここに告白します。申し訳ございません。
Tacomi式世界③「百人一首でデュエル!!」(明日から使えるルール付き)
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ぼくが小学校6年生の頃、学校で「遊戯王」が流行っていた。
でも、よくありがちな話だが、持ってくることが禁止になってしまったのだ。
ある日、友達が「あれっ、おれのブルーアイズがない! ブラックマジシャンも! ガイアはあるのに! パ、パクられたぁー!!」と泣いて騒いだ。
すぐに、各クラスの先生が裁判長になって学級会が開かれた。
しかし、結局誰も「ごめんなさい。ぼくが盗みました」とは名乗り出さず、「犯人が名乗り出なかったので、今後遊戯王を学校に持ってきてはいけませーん」という法律が出されてしまったのだ。
以降、休み時間が超絶ヒマになった。
紙に、エクゾディアとかサンダーボルトとか死のデッキ破壊ウィルスとかを描いて遊べるようにしようと思ったけど、大量に作らないといけないし、そもそも絵がヘタだし、なにより作業がダルい。
中には「ドッジボールやろうぜ!」「ドロケーやろうぜ!」と誘ってくる友達もいたが、遊戯王ロスになっていたぼくは、そうそう浮気なんかできなかった。
気持ちが切り替えられないまま、机に突っ伏していると、ちょうど女子たちが教卓の周りに集まって、なにやらワイワイ盛り上がっていた。仲間外れにされたくなかったので、ちょっと行ってみた。
「ねぇ、何かやってんの?」
「みんなで百人一首してんの」
「ひゃくにんいっしゅ?」
見た感じ、カルタみたいな感じだった。
「ちょっと見して」
人垣の間から教卓の上に置かれた札を覗いてみと、見覚えのある顔があった。国語とか社会の教科書で、こんな顔の奴らに落書きしていたことを思い出した。
「ほら、これ天智天皇だよ」
ぼくの横にいた女子が、目の前に置かれた札を指さして教えてくれた。
「てんちてんのう?」
「そう。ほら、こないだ社会の授業でやったじゃん、大化の改新をした人」
あー…グラサン描いてから、持ってる木の棒みたいなやつをマイクに変えてタモリ天皇にした奴か。
「見て見て! こっちは小野小町だよ」
「おののこまち?」
「世界三大美女って言われてるんだよ!」
あー…なんか口ヒゲとあごヒゲ描いて、吹き出しで「おれが小町」とか書いたっけな。
ん? てか、待てよ……百人一首ってことは、これ全部で100枚あるのか。ってことは、50枚と50枚に分けたら、デッキが2つ作れるってことじゃん!
ぼくはすぐ、あの恋しかった遊戯王を思い出していた。
「ちょっとこれ、次の休み時間に借りるわ」
次の休み時間。
ぼくは机同士をくっつけて友達を呼び、「デュエルしようぜ」と勝負をしかけた。
「おいおい、それ百人一首じゃん」
「百人一首でもデュエル出来るんだよ」
「そうなの…?」
早速、遊戯王の要領で山札を2つに分けて、そこから5枚引いて手札にした。ぼくは、この感覚がうれしくてたまらなかった。
「じゃあ、おれからね。持統天皇を守備表示で召喚!」
あ。
問題が起こった。そういえば、この札には絵は描いてあるけど、攻撃力も守備力も書いていない。書いてあるのは、よく分からない言葉だけ。うっかりしてた。これじゃ勝ち負けのつけようがない…。
「じゃおれのターンね。えーと、清少納言を攻撃表示で召喚! って感じでいいのか? で、ここからどうすればいいんだよ?」
どうしよう。学校のものだし、攻撃表示とか手書きで書くわけにはいかないし…。
あ。
いいことを思いついた。
「じゃあさ、3人でやることにしてさ、2人が戦って、1人が審判ね。まず、お互いに山札から一枚オモテにして出し合ってさ、絵の横に書いてある、よく分かんねぇ言葉をおもしろく訳せた方が勝ちってのはどう? 判定は審判がやることにしてさ。テストにも役立つし、最強じゃね?」
遊戯王のルールとはだいぶ違うけど、ぼくの意見はすぐに賛成になった。
最初は、正しい訳が載っている教科書を見ながらやっていたけど、訳を覚えてくると、だんだん自分なりのアレンジを利かせることが出来るようになってくる。
ぼくたちのクラスでは、遊び方が違う百人一首が流行しだした。
教科書に書いてある訳を丸暗記してデュエルする奴がいたけど、それだと直訳過ぎてつまらないから、ジャッジで負けになることが多かった。
ぼくは、自分たちなりの超訳の方がおもしろいと思っている。
例えば、柿本人麻呂の「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」なら、教科書に書いてある訳には「山鳥の尾の、長く長く垂れ下がった尾っぽのように長い夜を独りさびしく寝ることだろうか」になるけど、これだとちょっとおもしろくない。
だから、「やっぱさ、おまえがいないとさ、夜の長さがちげぇんだわ…あーもー! さみしすぎて長く感じてんだよコラァ!」って、ぼくなら訳していた。
他にも、河原左大臣の「みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れそめにし われならなくに」なら、教科書に書いてある訳には、「陸奥で織られるしのぶもじずりの摺り衣の模様のように、乱れる私の心。一体誰のせいでしょう。私のせいではないのに」になるけど、やっぱりイマイチ。
だから、「おれの心がさ、こんなにワサワサドキドキしてんのはさ、誰のせいだと思う? そう! 君のせいだよ、き・み・のっ!」って、ぼくなら訳していた。
というふうに演技して訳すと分かりやすいし、ワンチャン笑いが起きるし、笑いを取った方も満足感にひたれる。
肝心の意味だって、決して間違っていない。
みんな「いかにおもしろくちゃんと訳せるか?」をおもしろがってくれて、女子も男子も、休み時間は額を寄せて百人一首でデュエルしている光景が日常的になった。
結局、国語の勉強にもなったし、遊戯王がなくても遊べることに、先生は泣いて喜んでくれていた。
ちなみに、「やってみたい」という人に向けて、ぼくたちの作ったルールをまとめると、こんな感じだ。
★『百人一首デュエル』 ルール★
①最少人数は3人。2人が対戦し、1人は審判になる。でも、人数が多くてもOK。例えば、2人が対戦し、10人が審判になるでもOK。
②2人で50枚と50枚に分ける。だけど、ダルいのであれば数枚でもOK。ただし、山札の数は、例えば10枚と10枚にするなどして、2人とも公平になるようにする。
③先攻と後攻を決め、せーのでお互いに山札の一番上から1枚札を取り、表にして出す。
④先攻が自分で出した札の和歌をおもしろく訳す。後攻も同じくおもしろく訳す。ここでは恥を捨てて演技する。もし見ている人がいれば、必ず拍手をしよう。
⑤審判が、どちらがおもしろかったかを判定する。審判が複数いるなら、多数決でもOK。
⑥勝ったらその場に出ている札を自分のものとして山札の横に回収し、ポイントにする。なので、勝ったら2枚もらえるから、2ポイントとなる。もし、引き分けだったらお互いに自分の出した札を山札の横に置いて、1ポイントずつもらえる。
⑦最終的に、山札の横にある札の枚数が多い方が勝ち。
【やってみた】ストレスで血尿が出て死にそうだったので治してみた
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こんにちは。血尿がドバドバと出たことがある、文豪たこです🐙
今回は、尿路結石による血尿が出た時の自分の体験談と対処法の話になります
結論から言うと、血尿は食生活と職場環境を改善すれば治ります!
ある朝、起きてトイレに行って、座って排尿をしていると(うちは大でも小でも必ず座る)
「あれ? なんか、痛ぇ…」
下腹部がズキズキと痛んだ。気のせいだと信じて、ズボンを上げて便座を振り返った瞬間、固まった
便座の中は泡立っていた、鮮やかな赤色に
愕然としたが、とりあえず写メ。人間はこういう時でも意外と冷静でいるものだ
仕事は12時からだったが、近場で診察してくれる泌尿器科を探してすぐ受診。こんな感じの血でしたと、写メを医者に見せる
何の病気と言われるまでもなく、結果は尿路結石
腎臓に石が溜まってしまって、内部を傷つけて尿に血が混じってしまっているとのことだった
「リーダー(当時の僕の役職)はこうでなければならない論」を押し付けてくる同僚へのストレスで、食生活が崩れてしまっているのかもしれなかった
何の手当てもつかないことに日々のモチベーションを消失したということもある
病院で漢方薬を処方されて、しばらく服用していた。気休め程度で、排尿時に痛みがなるべく走らないように、すがすがしさを与えるものだった。今思えば、根本的には解決していなかった
飲み終わったタイミングで、やはりまた下腹部に痛みが走った
かかりつけの病院は連休が続いていたので、別の病院で生れて初めて「腎エコー」の検査を受けた
腎臓部分にゼリーのようなものを塗られる。そこへ機械を押し当てられて、目の前のモニターに自分の腎臓が映し出され、同時進行で腎臓の様子が見られるというものだ
見入ってしまうほど、キラキラと小さく光るものがいくつか…(わぁ、キレイ…)確認できた。結石だ
医者によると、再発率は70~80%。水分を多く摂って適切な食生活を続けないと、また高確率で再発するそうだ
食べたほうがいいものや、食べないほうがいいものはあるかと聞くと、「シュウ酸を含んだものはやめた方がいい」とのこと
そのシュウ酸という物質がカルシウムと結び付くと結石になるとのことだった。野菜=治りそうというイメージを持っていたが、実はダメなものもあるのは知らなかった
ナス、ピーナッツ、バナナ、チョコ、コーヒー、ココア、緑茶、紅茶など
また、以下のものを積極的に摂取することを推奨された。クエン酸系がいいらしい
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薬は出されなかったが、医師からは「とにかく水をたくさん飲んでおしっこと一緒に石を出してね」という警告は出された。目安は、1日約2リットル
上記に挙げたクエン酸の入った食べ物を食べ、シュウ酸の入った食べ物や飲み物を避けつつ、以降、ずっと水ばかり飲んでいる。「朝の一杯」と称したコーヒーもやめた
外で「のどが渇いたなー」と思っても、基本的には自販機でもコンビニでも水を買っていた
よく買っていたのは、コンビニやスーパーなどで売られている、2リットルのペットボトルの水だ。目標が見える化できて良い
水を飲みまくったお陰で、排尿の際にはだんだん血尿は出なくなってきた。だが、代わりに排尿した際に結石が出ていることに気が付いた
うれしかったが、同時に何より石が出る時にとてつもなく痛みを感じた。手をグーにして力を込めるか、どこかに掴まりながら用を足して、必死に痛みをこらえていた
例えて言うなら、身体の内側にある針が外の皮膚を突き破るような感覚だった。排尿するたびに、痛くて涙は出るし、寒くても汗はダラダラとかいていた
トイレはスッキリするところではなく、痛みに耐えるところになり、尿意を感じるたびに恐怖も感じた
当然、水をがぶがぶ飲みまくっていたせいでトイレが近くなり、当時勤務していた介護施設の業務の途中にたびたび抜けることがあった
ぶっちゃけ、「身体が資本なんだから休めばいいじゃん」……と、今の僕ならためらいもなく休む
だが、当時リーダーだった僕は「いかにリーダーらしいところを周囲に見せられるか」という使命感を持ち、風邪を引こうが血尿が出ようが、無理をして仕事に行っていた
恥ずかしくて言いにくい話かもしれないが、尿路結石を患っている中で仕事をするのであれば、周囲に尿路結石であることは伝えておくことをおすすめしたい
急に倒れられても困るし、秘密にしたままにすると、何の理由もなくただトイレによく行く人と見なされ、「サボりなんじゃね?」「スマホでゲームでもやってるんじゃね?」と思われてしまう可能性が大であるからだ
ちなみに、僕は「実は今、尿路結石なんです。途中で何回かトイレに行くかもしれないので、その時はちゃんと伝えます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」と打ち明けた
心配してくれる人もいた。ただ、何人かからは
「やっぱりリーダーは来ないとね」
「みんな人手不足の中で頑張ってるんだから、トイレに行くのもほどほどにね」
「休んだらリーダーじゃないって思いました」
「尿路結石って、普段の生活が崩れてるからなるんでしょ?」
という声もあった。今だからこそ思うが、リーダーにもなったことがなければ、尿路結石にもなったことがない人たちに言われたくない
ただ、当時の僕は周りの顔色をうかがいながらリーダーとして振舞っていたので、「そうだよね」としか思えていなかった。過去の自分を殴ってやりたい
そして、1ヶ月も経つと痛みも落ち着いてきた。ようやく石が全部出切ったのかもしれない。しかし、また偏りやすい食生活を続けていると石が形成されてしまう可能性があるので、留意が必要である
ちなみに、その施設にいること自体にストレスを感じていたので、さっさと異動してしまった
その後は、適切な対処法のおかげか、幸いにも血尿は出ていない(もしかしたら、本当に小さい結石くらいは出ているかもしれないが…)
≪まとめ≫
①結石を尿と一緒に排出するために、水を毎日約2リットルは飲もう
②食べていいものや、いけないものを考慮した食生活を送ろう
③仕事は休むことを推奨するが、仕事をするなら周囲には伝えておこう
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Tacomi式世界②「お坊さんと間接キス」
老人ホームで働いていると、いろんな人に出会う。
一番強烈だったのは、元お寺の住職だったという丸坊主でつぶらな瞳を持つおじいちゃんだ。
ぼくは、そのおじいちゃんと間接キスをしたことがある。同じコップを使ったとか、そういうかわいいレベルではない。
職業柄だと思うが、そのおじいちゃんは何かにつけて「うにょーうにょー」とお経を読んでいた。上も下も入れ歯をしているが、滑舌は良い方とは言えず、お経ならなおさらちょっと何を言っているのかよく分からない。
それでも、例えば、寝ている時も合掌して、「にょっ…にょっ…にょっ」といびきを立ててお経を読んでいるし、便座に座っている時も合掌して、「うにょーーううううんっ!」と踏ん張りながらお経を読んでいるし、お風呂に入って頭をシャワーで流している時も合掌して、「うにょうおおおおおお!!」と、これはもうお経を読むというより、もはや滝行みたいな感じになっている。
ある日、ぼくはおじいちゃんと交流を深めようと、床にひざまずき、おじいちゃんの顔を見上げる格好で、「なんみょーほーれーん」と合掌してオーソドックスなお経を読むまねをしてみせた。
ところが、おじいちゃんが「びあうほ!(ちがうよ)」と言って、手を横に振った。どうやらこのお経の読み方に問題があったらしい。そもそも抑揚の付け方とか知らないのだが。
そして、本家を見せたるわ! という感じで、おじいちゃんは勢いよく合掌し、「うにょんにょんにょーにょん」とお経を読んでいたが、その最中おじいちゃんの総入れ歯が外れ、おじいちゃんを見上げて一緒にお経を読んでいたぼくの口の中に降ってきた。
あはは。ぼく、一足お先に南無阿弥陀仏。
Tacomi式世界①「ビデとヒデ」
トイレに備えつけられているボタン「ビデ」を、ぼくはずっと「ヒデ」だと思っていた。
そもそも、「多分おしりの穴を洗ってくれるやつなのかなぁ」という勘違いをしていた。ヒデを押すと、おしりの下からヒデっていう人が顔を出して、おしりを洗う旨を伝えて奥に引っ込んで、ぺろぺろぺろぺろ穴の汚れを拭き取ってくれるんじゃないかと、最近まで本気で信じていた。
純粋な子どもの頃は、「なーんでヒデっていう人に、おしりの穴をなめられないといけないのっ!?」と疑問に思い、ぼくは身震いしてヒデ存在不要説を抱いていた。もし、進んで押す人がいるとしたら、ホモの人が必要としているボタンだろうと思っていた。
性欲が染みついた大人になってからは、「あっ! もしかしたらヒデって、ヒデミとかヒデコの略かも! これワンチャンあんじゃね!?」と、よくよく考えてみたらこれほどエッチで男性にとって嬉しいことはないだろう! と思ったことがある。その時に、一瞬ヒデを押して気持ちよくなってみようかどうか迷ったが、でもやっぱり考えてみると、なんか「ヒデミ」とか「ヒデコ」って昔の感じが漂う名前だし、もしおしりの下からおばあちゃんの顔が出てきて、「ほーれ! 今からケツさ洗うべー!」とか言われるのも嫌だな…と萎えたのでやめておいた。
ところが、介護士として老人ホームで働くようになってから、ついにヒデを押す機会があったのだ!
それは、ちょうど女性職員が忙しかった時。「まぁーだかー!?」「おーうい! 早く拭いとくれぇーい!」と、トイレに入っていた、手が不自由なおばあちゃんがずーっと叫んでいた。
基本、異性介助はダメだったのだが、「あーもう! ここは行くしかねぇじゃん!」とムシャクシャしたぼくがトイレに入って、おばあちゃんのおしりを拭いてあげた。
ところが、おばあちゃんが「にいちゃん、これ押してぇ」とヒデを指差すので、ぼくは「ええっ!」と驚いてしまった。このおばあちゃんは、ヒデにおしりの穴をなめられたいのか! その覚悟があるというのか! そんなぼくも、あのヒデの正体を見てみたかったので、ややファイティングポーズを取りながら、「じゃあ、いいですか? いきますよ? うりゃあああ!」と決死の覚悟でヒデを押した。
あっ! でも近頃はAIも発達しているし、もしかしたら、攻撃力の高いAIヒデが「オマエハデテイケ。フタリノジカンヲジャマスルナ」とか言ってレーザーでも撃ってくるかもしれないっ! と、とっさにファイティングポーズからガードに切り替えたのだが、ウィーンという機械音がしたのち、おばあちゃんは「みょ〜♡」とか「ぬぅ〜♡」とか、目をつむって気持ち良さそうにしていた。あれっ?
その間、ぼくはおばあちゃんにインタビューしてみた。
「あ、あのー、ヒデってどんな人なんですか?」
「ひでぇ?」
「ほら、ぼく、今ヒデ押したじゃないですか。いや、どんな人がおしりを洗ってくれてるのかなーと思って。やっぱり、あれですか、おばあちゃんは特に警戒もしてなさそうだったから、もう亡くなられた旦那さんに似たヒデゾウとかヒデキチみたいな顔したおじいちゃんが出てきて洗ってくれたとかですかっ!?」
「おめぇ、さっきからなーに言ってんだ? ヒデじゃなくてビデな、ビ・デ!」
「へっ!?」
あ! 確かに「ビデ」って書いてある!! ヒデじゃない!
「じゃあ、ダビデっぽい人が出てくるんですか!?」
おばあちゃんはあきれて、便座に座ったまま、トイレの中で10分くらいビデの講義をしてくれた。ぼくはそのあと、長時間座らせておばあちゃんのおしりが赤くなってしまったというので、ヒヤリハットを書いたのだった。トホホ。
【やってみた】初心者でもわかる!コロナの影響で売れているカミュ『ペスト』を解説(後編)
前編はこちらから
前編に引き続き、アルベール・カミュの『ペスト』について考察していきます
こんな人におすすめ
・「難しくて途中で挫折した…」
・「流行っているし、なんとなくスジが分かったら読んでみたい」
見えないペストとの戦いや、著者の思想を描いたスジを追いつつ、「コロナの時代に生きる私たちにもたらしてくれたものは何か?」について読み解くシリーズの後編です
なお、読み解くにあたって、今回も新潮文庫版の『ペスト』を参考にさせて頂きました
個人的には、『ペスト』は「愛」をテーマにした小説だったとも見ている
前回記述した、新聞記者のランベールが(というよりも、著者カミュが)「僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです。」ということが象徴されている箇所がある
保健隊の幹事役でもあった、初老の下級官吏グランの話である
カミュはグランを、「筆者はグランこそ(中略)平静な美徳の、事実上の代表者であったと見なすのである。彼はいつもの彼そのままの善き意志をもって(以下略)」(P197)と述べている
つまり、ヒーロー的な要素のないグランに、カミュ自身の思想を託しているのではないかと読み取れる
カミュが嫌った、「神」や「イデオロギー(政治思想)」という言葉とは真逆だ
グランというのは、余暇を使っていつも未完小説の一文を推敲するという、ちょっと面白い趣味を持った人物である
オランにペストが蔓延し、患者たちは次々と収容所に入れられ、遺体が次々と火葬されるようになっても、せっせと未完小説の文章を推敲している
グランは若い頃、妻に出て行かれてしまっている。しかし、繰り返し脳裏をよぎるのは、美しかった妻・ジャーヌの思い出だ。ジャーヌとの馴れ初めをリウーに語る場面がある
「ある日、クリスマスの飾り付けをしてある店の前で、ジャーヌはそのショーウィンドーを感嘆して眺めていたが、いきなり彼のほうへ倒れかかりながら、こういった――「まあ、きれいね!」彼は彼女の手首を握りしめた。こうして、結婚は決まったのだった」(P118)
それでもジャーヌが出て行ってしまった理由、それはグランに言わせれば「働いて働いて、そのあげく愛することも忘れてしまうのである。」(P118)とのことだった
実は、僕は『ペスト』の中で、この一文がいちばん心に突き刺さったのである
外出自粛の影響でテレワークをするようになり、家族で過ごす時間が増えたという人は多いはず。日々働いていると、仕事に蝕まれ、誰かを「愛する」ということを忘れてはいないだろうか? と僕は問いたい
話を戻そう。ペストは夏にかけて蔓延し、冬になっても魔の手を引こうとしない。オランに住む多くの人が愛する人を亡くし、悲しみに暮れていく
クリスマスの日、グランが行方不明になってしまう。ランベールによると、変わり果てた顔つきで街を彷徨っているらしい
リウーは心配になって捜索に乗り出し、ついにグランを見つける
「正午の冷え冷えとする時刻に、リウーは車から出ると、遠くに、そまつな木彫りの玩具のいっぱい並んでいるショーウィンドーにほとんどはりつくようにしている、グランの姿を見た。老吏の顔には、涙がとめどもなく流れていた。そして、その涙がリウーの心を烈しく揺り動かした。」(P388〜P389)
グランは、かつての妻との在りし日を思い出していたのだ
このクリスマスの直後、ペストは収束に向かう。ペストに感染してしまったグランも、奇跡的に回復する。回復したグランは、ジャーヌに手紙を書き、満足しているとのことだった
先述した、カミュが言わせたランベールの「僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです。」という思想にグランは合致する。つまり、創作の楽屋裏を覗くようだが、グランは愛する者の為に必然的に生きなければならなかったのだ
それからまた例の文章いじりを始めたそうだが、「すっかり削ってしまいましたよ、形容詞は全部」(P453)ということだ。散々、文章をどう書くかで推敲に推敲を重ねて悩んだ挙句、「形容詞を削る」という答えには「形容詞=修飾語=何事も飾らずありのまま生きていく」という決意が読み取れる
文豪たこ流に、『ペスト』でのカミュの思想を凝縮すると「極限状況になっても、神にすがることなく飾らずに生き、ただ愛したい人を愛して生き、そして死んでいく」と言えるだろう
完
【やってみた】初心者でもわかる!コロナの影響で売れているカミュ『ペスト』を解説(前編)
ステイホーム中はずっと読書派、身体のなまった文豪たこです🐙
緊急事態宣言は全面的に解かれた形になりましたが、まだまだ油断はできません
今日は、「コロナウィルスとの戦いに重なるところがある」と、ちまたで売れに売れているアルベール・カミュの『ペスト』についてです
こんな人におすすめ
・「難しくて途中で挫折した…」
・「流行っているし、なんとなくスジが分かったら読んでみたい」
見えないペストとの戦いや、著者の思想を描いたスジを追いつつ、「コロナの時代に生きる私たちにもたらしてくれたものは何か?」について、前編と後編に分けて、文豪たこ流で読み解いていきます
なお、読み解くにあたって、今回は新潮文庫版の『ペスト』を参考にさせて頂きました
194×年、アルジェリアの港町、人口20万人のオラン
ある朝、医師のリウーはネズミの死体をいくつか発見したところから、物語は幕を開ける
その直後から、高熱でリンパ腺が腫れ、吐血して死ぬ人々が続出する。いわゆる『腺ペスト』の症状だが、医師会も行政もペストであることは認めず、何も手を打たない
ところが、患者が急増するにつれ、ようやくペストの流行を宣言。オランの閉鎖を決定する
やがて、毎日100人以上も死者が出る状況となった。病院も行政も対応しきれなくなり、医療崩壊に向かっていく
この部分を読むと、コロナウィルスによる感染が毎日100人以上も確認されていた、東京の4月の状況を想起させる。奇しくも、医師リウーがネズミの死体を発見したのも4月であった
作中に出てくる『腺ペスト』は、ノミによって感染拡大する病気と考えられていたので、対人接触が危険だという認識はなかった
なので、閉鎖は閉鎖でも、外部との連絡を断つだけで、時間を持てあましたオランの住民たちはカフェに入り浸って、日夜、あれやこれやのバカ騒ぎを続けてしまう
一方、医療崩壊の危機を防ぐために、『保健隊』という、いわば民間のボランティア組織が結成された
危険は伴うが、ペストに感染した患者の世話や、遺体の運び出し、消毒作業に協力をする組織である
ただし、著者のカミュは作中で、「筆者は、しかしながら、これらの保健隊を実際以上に重要視して考えるつもりはない」(P192)と、わざわざ登場して述べている
保健隊を窮地のヒーロー的な組織としては描かず、むしろ、一般市民たる男たちが生死を賭けてペストと戦う経緯に着目している
男たちに共通するのは、神もイデオロギー(政治的思想のこと)も信じていない点である。もともと瀆神的(神の神聖を汚すこと)だというカミュは、神やイデオロギーを「観念」や「抽象」と呼び、作中の人物に自身の思想を託している
例えば、新聞記者のランベールに、「僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです。」(P244)とまで言わせている
神やイデオロギーという「観念」や「抽象」に頼らなくても、いざとなった時に人間は死の危険に飛び込めるのかどうか、人間は連帯してペストに挑めるのかどうかと、保健隊の男たちに繰りかえし議論させている
そして、結末は実にあっけなくやってくる。ペストは突然収束に向かい、人々は元の生活に戻っていく
例えば、ランベールは離れ離れになっていた妻と再会する
その一方、「ペストは神からの罰であり、人間の罪だ!」という旨を厳格に説いていた神父パヌルーは、自身にペストの疑いがあっても医師の診察を拒み、神の手に運命を委ね、十字架を握り締めながらペストで死んだ
瀆神的なカミュの思想性が顕著に表れている結末である
僕の心に焼き付いてるのは、最後の段落である
「事実、市中から立ち上る喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦が常に脅かされていることを思い出していた。なぜなら、彼はこの歓喜する群衆の知らないでいることを知っており、そして書物のなかに読まれうることを知っていたからである――ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強くまちづづけていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。」(P458)
文庫本の裏表紙にも「対ナチス闘争での体験を寓話的に描き込んだ」という記載がしてあるが、カミュは「『ペスト』は、第2次世界大戦におけるドイツ軍の占領下であったフランスの隠喩で、ペスト(すなわち、ナチスのような悪)は、決して死ぬことも消滅することもない」という旨を述べている。これは、仮にナチスが滅んでも、同じような「悪」が再び台頭してくるであろう、という警告である
現代社会に置き換えてみると、人間へ、そして世界への警告であることを思い知らされる。ペスト(ここではコロナウィルスを指すが、いろいろな単語に置き換えられるだろう)は「収束」はすれども、「終息」はしない。あちこちに息を潜めて存在している限り、歴史は繰り返され、そのたびに人間は試されていくのだろう
僕は、『ペスト』が残してくれたものは以上のことと、それからもう一つあると思っている。後編ではその「もう一つのもの」について述べていこうと思う
つづく